南陽寺探訪

南陽寺がある御園町は、昭和四拾壱年に成立する町名ですが、江戸時代には園部村といわれ、園部城もこの班域内に属していました。
俗に天神町ともいわれ、園部藩内でも最も大きな村でした。

一、開創

南陽寺は、小山東町の徳雲寺系の禅寺で山号を「白崖山」と呼んでいます。
『寺社類集』によると、元文元年(一七四〇)には「城前山」と呼んでいたそうです。
寺伝によりますと、元和元年(一六一五)、快天山ァ和尚によって開創されたとしていますが、「徳雲寺末寺帳」では、開創を元和七年(一六二一)としています。
結局『寺社類集』は、開山と開創年時はわからないとしています。

二、前身・少月庵

「徳雲寺末寺帳」によりますと、快天山ァは最初、栄町の二本松の谷に、「少月庵」を営んでいたと伝えています。
先年、二本松の北側斜面の竹薮から一文銭が大量に出土したと聞いています。
この地域は天神社の宮寺などがあったところも伝えていますから、少月庵は南陽寺の前身と考えてよいでしょう。
快天は南陽寺の開山として創建していますが、間もなく少月庵に隠居しています。

三、創建は築城時?

「徳雲寺末寺帳」のいう元和七年は、園部城築城のほぼ完成期を意味しており、城下町の整備も完了する頃にあたります。
ですから、南陽寺の創建は、この時期に設定して間違いないものと思われます。
このことは、南陽寺の鎮守である白山社が「山ァ堂僧」によって元和七年に造建されていて、南陽寺そのものの開創年時もこの年を下ることはないと思われます。
「山ァ堂僧」の堂僧の称から、村堂あるいは辻堂としてあった少月庵の堂守であった人かもしれません。
快天山ァ和尚は、開創した南陽寺を寛永八年(一六三一)七月に弟子の舜龍に譲っています。
その後、隠居して法儀などの研究に努め、寛永十年三月四日に没しています。

四、中興始祖

以来、五十三年間十代を教え、貞亨四年に徳雲寺第十三世鉄觜梵角を住持に迎えます。
鉄觜は、この南陽寺を終焉の地と定めています。
鉄觜は、天和二年(一六八二)に「平僧地」であった南陽寺を「法地」に寺格を上げて一寺としていまして、当寺では、この鉄觜を「伝法中興始祖」として尊崇しています。
したがって、快天以下十代留守居の住持、つまり堂僧にすぎませんでした。
本寺の徳雲寺から天和年間に法地起立されて正式の寺院へと成長をとげることになります。
さて、伝法中興された南陽寺は、鉄觜のあと第二世龍峰心朔(一七〇二年没)、
第三世大鏡霊明(一七一五年没)、第四世大真文誓(一七六八年没)と継承されています。

五、諸堂の建立

これら歴代中、元禄七年(一六九四)に大鏡霊明が観音堂、享保二年(一七一七)に大真文誓が地蔵堂をそれぞれ建立しています。
この間に伽藍はほぼ完備し、元文五年(一七四〇)の調査時には、本堂・庫裡・衆寮・観音堂・鎮守(稲荷宮・神明宮相殿・白山宮)・地蔵堂の諸堂が建立されていたのです。

六、文化の火災

第九世篤峰祖芙(一八二余年没)住持の時代の文化二年(一八〇六)七月十一日に火災があって灰尽に帰しています。その復興は、文化五年に着手されます。
しかし、再建には規制があって、「軽ク作ルベシ」とされました。
そして、第十一世伝明知謙(一八八二年没)によって本堂・位牌堂の再建、慶応元年(一八六五)に山門の建て替え完了していきます。
さらに、明治に入っても諸堂が焼失し、明治三十九年(一九〇六)に再建されています。
更に平成八年には開山堂・位牌堂・檀信徒会館が建立され現在にいたっています。
また、「そのべ昔話」に登場する[かねつき堂]がお寺の裏山にあったことが園部古城図に見られる。
この鐘撞堂は、現在お寺の境内にあり、朝昼夕方に時を刻む梵鐘の音は、城下町の人々に安らぎを与え心を清めるとおわれています。

南陽寺 〒622-0002 京都府南丹市園部町美園町1-1 Tel0771-62-2008 Fax0771-62-2004   > リンク