「南陽寺境内の長寿椿と記念碑(歌碑等)」  〜南陽寺にまつわるよもやまばなし=`

一、 五色八重散椿

京都にはこの品種の古木が多く地蔵院(椿寺)にその巨木がある。
白地に紅色の縦絞りの入る花や、白色、紅色それに白覆輪花などいろいろに咲き分ける八重咲きの中、大輪で晩咲き、樹性はやや横張りで強健。
ツバキは花首から落ちるのが多いが、これはばらばらと散るのでこの名がある。
散椿の風情は美しい。
この京椿は、別名長寿椿とも呼ばれている。

二、岡田惟平翁歌碑

南陽寺境内南陽寺会館前に高さ一九〇センチメートル、幅一○五センチメートルの碑は詠歌で、

『二夜ともなきもち月の
かけきよみ
もりてふかさむ軒のさ
むしろ
八十九  惟 平』

と詠まれている。
歌碑裏面の碑文は

「岡田惟平翁は世にかくれた歌人である。性活淡質素、明治四十二年八十九歳で生涯を終えるまで、その作歌実に数千首に及ぶ。
大本教祖出口王仁三郎師年少の頃当南陽寺の近隣に在り、翁に国学及び歌道の教えを受く。
後年その恩徳を偲び歌碑を当境内に建つ。昭和八年のことである。
幾許もなく大本事件おこり、惜しくも破砕に遇う。
漸くにして再建に機熟し、今日幸いに殆ど原型を以て竣工を見るに至った。
師弟敬愛の情を永くとどめ得たことは大きい喜びである。
昭和四十年十二月三日
歌碑再建有志一同」

なお、岡田惟平翁は、文政四年(一八二一)摂津国川辺郡西谷村に生まれ、明治四十二年秋、園部町黒田の観景寺で八十九歳の長寿を保って没去された。
翁の青年期は幕末の騒然たる時代で、儒者武藤豊樹より儒学武術を学び、錦小路頼徳公よりは堂上流の歌を学んだ。
その後、万葉調の歌を詠み、かくれた歌人といわれてきた。

三、 谷辺橘南句碑

南陽寺の山門を入り右側鐘楼と山門の間に谷辺橘南の句碑がある。
谷辺橘南氏は戦後園部高等学校に書道の講師として迎えられ、教えを受けられた書家田中香雲先生をはじめ多くの書家が当園部町に続出した。
また、歌人としても多くの歌を残している。

四、 堀作蔵碑

南陽寺山門入り口の左側にひときわ目立つ碑が堀作蔵日である。
同氏は園部藩士に角力を教えるために藩より召抱えられた力士で、幕末南陽寺が火災に見舞われた際に山門を火災から守った人と言われている。
当時山門が焼失すると寺籍が取り消されたと言われている。

岩倉公供奉時代
余は丹波国園部、小出信濃守の藩士であるが、文久三年余の十六歳のとき江戸へ出て、斉藤塾…即ち練兵館道場で剣術の修業をした。
余の学んだのは、二代目斉藤弥九郎で、先代は既に篤心斉と号して代々木の山荘に隠退していた。
けれど道場へも時々顔を出して、門弟の稽古を見ていた
熱烈な勤皇家で、桂小五郎初め、渡辺昇、山尾庸三などの傑物を出している。
二代目斉藤弥九郎も父に劣らぬ腕前で、この人の向こうに廻る者は千葉周作の跡をとった千葉栄二郎ぐらいだといわれていた。
「二人が手合わせをしたら、余程面白いことになるだろう。」そんなことを実行させようと企んだ物好きもあったが、殺伐な当時であるから二・三の大藩が口入してそのことは行われなかった。
余は研鑚怠りなく励んだので、数年の跡には許されてこの道場の塾頭となり、余が二十歳にして京都へ出るまで努めた。
京都へ出てからは、余は多くの名士を訪問したが、これぞと思う人にも出会わなかったが、岩倉村の實相院諸大夫入谷駿河守の紹介で岩倉具視公を訪ねてからは、その人物の得易からぬ傑物なることを知って、自ら進んでその供奉の任に当たった。
(中略)

公は始め公式合体論を主唱した為、広畑忠禮等十三人の公家に弾劾され、勅堪を蒙り岩倉村に幽居、落飾まで仰せつかったのであるが、時勢の移るとともに公の真意が志士の間で諒解され却って勤皇派の仰ぐ処となった。
そこで佐幕派の新撰組からは目をつけられていた。
何日何時新撰組の白刃が蹴り出さんとも限らないから、供奉している皆は四六時中刀の柄に手をかけんばかりの緊張した気持ちでお供をした。
途上、よく新撰組の隊士に出遭った。
けれど何故か、乱暴にも及ばず見逃していた。
しかし、その都度自分たちはハラハラした。
今でこそ新撰組といえば近藤勇に限るようにいっているが、当時余は近藤などは殆ど眼中に置いていなかった。
却って土方歳三のほうが恐ろしく、彼に出会ったら余程注意をしなくてはならぬと思った。
その当時の自分達は毎日死を覚悟していた。
余にとっては忘れることのできぬ壮烈な時代である。
供奉の暇には、公の二子に剣術を教えていた。
 
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